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「ゆうづる」を牽けなかったC62たち~仙台機関区のC62 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 昭和39年の夏休みの撮影行。
 中学2年生のこの頃は、まだ泊りも夜行日帰りも許されていません。両親とは朝早く家を出て、その日のうちに帰ってくる、しかも同級生の鉄友・A君と同行するという約束です。でも普段は家の近所でしか撮影できない中学鉄ちゃんとしては、見たいもの、撮りたいものが山のようにある。それはA君も同じで、鳩首会談を重ねても、なかなか行き先や行動計画の結論が出ません。
 結局夏休みのある日、二人が上野駅から乗り込んだのは、一番の常磐線電車準急「ときわ」でした。
 まだ新車の匂いが残る451系電車の旅は、快適そのもの。電車は快調に北上を続けていきます。
 常磐線の電化は昭和36年(1961年)6月に取手-勝田間、37年10月に勝田~高萩間、38年5月に高萩~平間、同年9月に平~草野間と急ピッチで進捗していましたが、昭和39年の夏には、まだ蒸気機関車を置き換える交直流機EF80の数が出揃っておらず、貨物列車には、蒸機牽引の列車が残っていました。とりわけ水戸を過ぎるとその数が一挙に増えたように感じます。
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「ときわ」の終点は平(現いわき)。電化区間はこの先、次の草野までですが、運転上の電化非電化の接点は平。此処から先、常磐線は一部のDC列車を除けば、旅客列車の過半と貨物列車の全てが蒸気機関車の牽引となります。

 平駅の下り本線の仙台寄りにある機待線にお目当ての機関車が停車していました。
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 C6220。常磐線の取手以北の電化が完成するまで、尾久機関区に所属して常磐線列車牽引の任に当たっていたC62は12両(21号機は37年事故廃車)。電化の進捗に従って37年には全機、水戸機関区に異動したものの、すぐに平までの電化が完成して新鋭のEF80においやられるように、活躍場所を常磐線北部に求め、6両は平機関区へ、そして6両は遠く仙台機関区に分散異動したのです。
 C6220は仙台に移ったC62のうちの1両。このときの配属地の違いが、12両のC62の運命を大きく分けることになったのでした。


 それまでにC62を垣間見ることはあったけど、じっくりと眺めるのはこのときが初めて。家の近所で見られるC57と較べると、動輪は同じ直径1750ミリながら、ボイラの太さは大人と子供のように違う。そのせいでか、煙突は太く短く、同行のA君と「これじゃぁ絶対クルクルパーなんかつけられないよね」と笑いあった記憶があります。

 平駅のホームを行ったり来たり、なにしろ目にするもの全てが珍しい。やがて到着した上り列車はC6211の牽引。これも仙台機関区所属のカマ。
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 下りの客車列車が、EF8027に牽かれて到着。慌ただしく機関車が切り離され、北方へ逃げていくと…。
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 入れ替わりにC6220が動き出す。
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 早朝に上野を発った221列車は、ここからC62に牽かれ真夏の太陽を浴びながら一路北へ向かいます。
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 さて、当然この221レに乗って常磐線北部の撮影に…行ったのは、実はA君一人だけ。
 私はといえば、さっきからホームの向かいに見えていたD6012が牽く磐越東線の列車で、郡山に向かったのです。
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 確かにC62は憧れだったけど、小一時間の平滞在で2両も見たし、めったに出られない遠征、アレも見たいこれも見たいの中学2年生は郡山に出てED71や磐越西線のD50、DF50も見たい、と欲張りまくりのプラン。未だに抜けないあれもこれもと欲張るダボハゼ体質、一つのものをとことん追いかけるマニア性に欠けるのは、今でも続く「悪癖」ですが、いまさらどうにもなりません。同行の「正しき鉄ちゃん」A君は221レで北に向かい、富岡-夜の森の大カーブで「みちのく」をゲットしているんですけどね…。

 そんなわけで、私が常磐線北部区間に足を踏み入れたのは、翌昭和40年の春休みです。このときは、父の運転するクルマで、国道4号線を東北本線沿い一日かけて仙台に向かい、翌日は仕事で動きまわるという父と別れて、仙台から南下する形で常磐線に向かい、夕方には仙台に戻り、次の日、またクルマで一日かけて、今度は国道6号線で家路につく、という変則撮影行でした。

 初めて訪れた仙台機関区は駅の東側、東北本線に90度の角度で行き止まりの形になっていた仙石線の仙台駅ホームの南側にありました。
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C627仙台機関区昭和40年3月
 当時の仙台機関区は、大型蒸機の楽園。東北本線こそ、仙台までの交流電化が完成していましたが、常磐線の平以北、東北線も仙台以北が未電化で2C2のハドソン3兄弟、C60,C61,C62が全て配置され、さらに2両だけでしたがC59が残り、仙山線の交流機の予備としてC58363(現・秩父鉄道)、や入換用のC11と38両もの蒸気機関車が配属されていました。盛岡や青森のC60、C61、平のC62もしょっちゅう姿を見せていて、まさに24時間、ケムリの絶える間などない様相でした。
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C629仙台機関区昭和40年3月
 ハドソン3兄弟の中では、C60/61は早くから配置がありましたが、C62が配置されたのは前記したように、常磐線電化が進み、水戸区配属だった12両のうち、6両がやってきた昭和38年春のことです。常磐線で活躍していたC62の中では、比較的若番の7/8/9/11/19/20の6両と、北海道小樽から重油併燃装置つきの42号の併せて7両が配属になりました。
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C629小高-磐城太田 昭和40年3月
 このころの事情について、雑誌『国鉄時代』Vol.19に、当時仙台機関区で機関助士をされていた大山正さんが、興味深い一文を寄せられています。少し長くなりますが、そのまま引用させて頂きます。

 1963年(昭和38年)仙台機関区のC62配属にあたっての職員説明会では、 「奥羽線優等列車の牽引定数を引き上げるため、C57からC60に置換えていく一環として当区のC60も転出して行く、この置換えで水戸のC62が移ってくる」。また 「正式事項ではないが」  と前置きがあって、 「1961年3月、東北本線の黒磯-仙台間が電気運転開始により、牽引定数が1割アップした。仙台以北の優等列車も、これに合わせて定数を引き上げる計画がある。青森電化完成までの暫定対策として、山陽筋や常磐線で余剰となったC62に重油併燃装備をして活用する案である。そのために函館本線から重油併燃付のC6242号機を持って来て、軌道強化中の仙台以北で評価試験を行う。水戸からは『はつかり』を担当した状態のよいのを貰うことになっている」  と聞かされた。

 …へ~、そんな話があったんだ…当時の私は、C59やD62が走っている仙台以北で、C62(軸重軽減型)を走らせたら面白いのに…と漠然と思っていた記憶がありますが、現実にそんな計画が進められていたのですね。また、水戸から平と仙台に振り分けられたC62のうち、仙台にやってきたのは「状態のよいカマ」。つまり東北本線仙台以北にC62を導入し、重量列車を牽かせる、ことによったら奥中山の峠を超えて青森までロングラン、というファンにとっては夢のプロジェクトのために選ばれたエリートたちが、仙台にやってきたC62、ということになります。
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C629 鹿島-日立木 昭和40年5月
 ところが、そのC62たちを待っていたのは、それまでC60が担当していた乙組運用。常磐線平-仙台間の運用であることは、平に行った仲間たちと同様ですが、急行みちのくや、夜行急行群は平が受け持ち、仙台のカマはもっぱら普通列車が中心のローカル運用。わずかに不定期急行のスジが一往復持たされていただけでした。

 結局、C6242を使って行われるとされた重油併燃の評価試験は行われることもなく、ローカル運用ではC59に較べ経済的に非効率とされたうえに、盛岡に配置されていたDD51にも量産化のめどが立ち、余剰気味になったC60が仙台に戻ってくることになりました。
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C6211 浜吉田 昭和40年3月
 配置からわずか1年後の昭和39年3月に、まずC628とC6242が余剰廃車となり、同年10月にはC6219、C6220も廃車となってしまいました。平でC6220を撮影したのは、廃車になるわずか2ヶ月前のことだったのですね。

 それにしても、新プロジェクトのために選抜されたチームが、あれよあれよという間に情勢が変わってプロジェクトそのものがなくなってしまい、あげくチームそのものがリストラの憂き目に遭う…なんだか今の時代の会社社会でもありそうな出来事で、身につまされるものがあります。
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C627+C6238 日立木 昭和40年5月
 私が初めて仙台を訪れた昭和40年春には、仙台機関区で稼働していたC62は、C627、C629、C6211の3両だけになっていたようです。それでもハドソン3兄弟が、同時期に同じ機関区に所属していた、というのは、この時期の仙台機関区の出来事だったのでしょう。
 単に同形式が所属していたばかりでなく、3形式の同じ機番が同じ機関区にいた、というのもこの頃のエピソードかもしれません。
 例えばC6211。
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C6211 昭和40年8月 仙台機関区

 昭和40年4月の配置表を見ると、C6111号機も仙台機関区に所属していました。
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C6111 仙台機関区 昭和40年3月
 またC6011号機も…。
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C6011 仙台機関区 昭和40年3月
 この3両が同時に仙台機関区の扇形庫に並んだ姿を想像してしまいます。今だったらイベントで絶対やってますよね。

 同じように、C629号機、C619号機、C609号機も同時期に仙台に所属していました。
 7号機は残念ながら同じ時C617は青森、C607は盛岡の所属でした。でも20号機はC61は仙台の生え抜きだし、C60は盛岡所属だったので、並ぶチャンスもあったかもしれません。
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C627原ノ町 昭和40年5月
 仙台のC62,もうひとつのif。
 昭和40年3月に撮影した上り急行「みちのく」。
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上り12列車 みちのく C6245+C6010 小高-磐城太田
 期間ははっきりしないのですが、この頃、上り「みちのく」12レは仙台~平の間を、平機関区のC62(本務)の次位に、仙台機関区のC60をつけた重連で運転されていました。
 C60の方は、平から下り列車(荷物列車だったと記憶しています)を牽くための送り込み回送だったのですが、有火で本務のC62と協調運転していました。
 C62+C60の重連運転も、あんまり見ることは出来なかったと思いますが、仙台機関区の乙組で、C62が充当され、常磐線にC62重連が走ったことはなかったのだろうか?
 先の大山正さんの記事に、昭和39年10月改正で仙台の乙組は、乙1組(C60 5仕業)と乙2組(C62 2仕業)に分離された、との記述がありますので、もしも平と仙台のC62重連が実現したことがあったにしても、限られた回数だったと思うのですが。

 仙台機関区に配属されたC62は、昭和40年10月改正で、残る仕業をすべてC60に譲り渡し、運用を解かれ、9号機が予備機としてしばし生きながらえはしたものの、すべて休車~廃車の道をたどることになりました。
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C6220 仙台機関区 昭和40年8月
 奇しくも同じダイヤ改正で、常磐線には初の寝台特急「ゆうづる」が誕生し、平機関区所属のC62がその牽引の栄を担い、2年後、昭和42年の常磐線全線電化まで、最後の蒸気機関車牽引特急として活躍を続けました。
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 昭和38年春、水戸から移動したC62で、平に配属になったのはC6210、C6222、C6223、C6237、C6238、C6239の6両。これらはもとより平機関区所属だった24、45、46、47、48,49の6両ともども、昭和42年9月30日の最後の日まで常磐線を走り続け、さらに23、37号機は常磐線完全電化ののちも僚機とともに遠く糸崎機関区に異動、昭和45年10月の呉線電化まで活躍を続けたのでした。
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maipenrai

あるまーきさん
tochiさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-09-03 18:32) 

伊 謄

 出会っているのは、呉線でのC6237だけですねぇ。

by 伊 謄 (2012-09-04 00:28) 

Cedar

うーん、バッチリ王道のSL写真を見せられると何もいうことはございません!~~はは~っ。とひれ伏す感じです。
by Cedar (2012-09-04 00:45) 

京阪快急3000

当時の常磐線は、まさに「SL全盛期」だったようですね。

C62、カッコいいですね。

自分は昨年の1月に京都の梅小路蒸気機関車館で、2号機が保存されているのを見る事ができました。

もしよろしければ、自分のブログの以下の記事をご覧いただけたら、幸いでございます。

http://kei3000k.at.webry.info/201101/article_12.html
by 京阪快急3000 (2012-09-04 07:19) 

hanamura

タイトルが気になって読み進むと・・・ドラマですねぇ。
サブタイトル「SL常磐線叙事詩」う~ん、いかがでしょうか。
by hanamura (2012-09-04 07:34) 

maipenrai

伊 謄さん
 C6237号機は、42年9月30日の蒸機運転最後の日、さよなら運転を担当するC6249号機の脇を、ロッドを外された姿で旅立って行きました。私はてっきり工場にドナドナされるもんだとばかり思っていたのですが、その後まさかの呉線での復活劇でした。

Cedarさん
 写真の稚拙さを、なんとかテキストでカバーしようといういつもの苦肉の策でございます(・_ ; ) 。そんなに仙台に行っているなら、市電の写真を撮らんかい! というお叱りの声が聞こえてきそうな…。

京阪快急3000さん
 ブログ拝見させていただきました。梅小路は一度行きたいと思いつつ、いまだ訪問を果たしていません…。C622号機は一族49両の中でも、飛び抜けたスターでした。因みにC612号機は、この頃仙台機関区に所属していて、東北本線仙台-青森間で優等列車を牽引するなど活躍していました。同じ頃平機関区に所属していた8630号機、盛岡機関区にいたD511号機…懐かしいなぁ。

hanamuraさん
 多感な少年時代(;゜-゜) の記憶なので、いささか感情移入が過ぎたかも…常磐線にファンが集まるようになったのは、「ゆうづる」が走りだしてからのことなので、その少し前は、一日線路端にいて、一人のファンにも出くわさない…なんて珍しいことではありませんでした。

フジトモさん
モボさん
ひもブレーキさん
シュウチャンさん
プントさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-09-04 09:41) 

あおたけ

東北線、常磐線のどの列車も普通列車ながら大型蒸気が牽引する
長編成の客車列車で、当時の繁栄ぶりを表しているように思います。
それが今では合理化で仙台地区の普通列車はステンレスの4連・・・。
時代とはいえ、趣味的に見ると魅力は半減・・・いや、
100分の1程度になってしまったような・・・(^^;)

重連の「みちのく」は、大迫力ですね!
by あおたけ (2012-09-04 09:47) 

maipenrai

あおたけさん
 昭和40年代前半くらいまでは、戦後の混乱期をまだ引きずっていたんだなぁ…と改めて思います。それを近代化する過程で、いろんな古いものが消えていき、新しいものが生まれ…そんな時期だったから趣味的には面白い、そんなところだったのでしょう。でも出戻り鉄としては、今だって十分面白い。個人の力量ではおよそ手が回らない、それは今も昔も一緒ですね。

zyabuzyabusanさん
パルの大冒険さん
 niceありがとうございます。

by maipenrai (2012-09-04 20:45) 

KEY坊

え~っと、… 「鉄道ファン」1970年 (昭和40年) 1月号、特急を中心とした C62レポート の記事を読み直しましたけど、昭和24年、乙線の東北・常磐線地区に転入できるような計画にもとずいて、新製当時から軽量化 (軸重 : 動輪1軸当たりの重量を16tから15tに減少させ、この分を先-従輪に負担させる) であって、全重量は変わりない) されたものは、19~21号機、45~49号機の8両、23年に新製されたものから改造されたのが、7~11号機、22~24号機、37~39号機の11両、合計19両だそうな、へー、知らんかった ...。
東海道、山陽本線は華だったし、東北地方での転入はお古といった感じでしたね ... 中学の時、鉄の先輩から「オレんチは、『はやぶさ』で田舎へ帰ったけど、お前はオンボロ客車急行『津軽』だろ? って言われたのを覚えてる ... 。 これ、イジメだぞ、コラっ!! (-。-")凸


by KEY坊 (2012-09-05 12:19) 

maipenrai

KEY坊さん
 昭和30年代に入ってから北海道に渡った3/2/27/30/32/42/44号機も、軽軸重改造されて投入されたんでしたね。もっと後の時代になりますが、小樽のC62の晩年、32/44号機が全検周期に当たり、新しく全検を取るより、コストが安いということで、32/44号機を廃車にし、全検残存期間が残っていた、呉線のC6215/16号機を軽軸重改造の上投入、1年ほど使ったことがありました。
 なんだかなぁ…と思うんですが、私自身、まだ使えると思ったクルマを、車検費用があまりに高く廃車にして、新車を購入した、なんて経験があります。銚子電鉄の「検査費用が払えないんです」事件じゃないですが、この国は車検に類したコストがかかりすぎるような気がしますね。

ねじまき鳥さん
 niceありがとうございます。
yakitorimitbierさん
 たくさんのniceありがとうございます。
by maipenrai (2012-09-05 21:10) 

maipenrai

やまびこ3さん
デジカメさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-09-06 16:42) 

maipenrai

J-powerさん
湘南ライナー9号さん
燕っ子さん
 niceありがとうございます。

by maipenrai (2012-09-08 06:16) 

maipenrai

suzuran6さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-09-08 22:07) 

まー坊

常磐線沿いに住んでいる僕としては貴重な写真をありがとうございます。
僕の幼なじみの父親は、以前高萩駅の駅長さんでした(もう亡くなってしまいましたが)。
by まー坊 (2012-09-09 17:25) 

maipenrai

まー坊さん
 こんにちは。あれほど賑やかに列車が行き交っていた常磐線の北部がいまも寸断状態であるというのは信じられない思いです。一日も早い復活を願っています。当時の高萩駅は貨物の拠点で、機関支区もあってD51が配置されていた他、C50が構内や近隣駅の入換に活躍していました。
by maipenrai (2012-09-09 21:06) 

京葉帝都

C62は稼動した期間が20年くらいだったのは、勿体無いような気がします。C59以降のボイラーが大きいSLがゴロゴロ動き回るトワイライトな姿は感動的であったでしょう。SL時代は旅客用は仙台、貨物用は長町、と使い分けられていました。
山形新幹線が新庄へ延長した時に記念に陸羽東線を走った「ゆけむり号」のC57には『長』の札が付いていました。宮城県、岩手県にC61が走行する時は『仙』の札を掲げるのかどうか。
by 京葉帝都 (2012-09-12 01:59) 

maipenrai

京葉帝都さん
 あの209系でさえ、某県内でこの先10年以上は活躍を続けそうなのに(笑)、C62の20年余りという寿命は確かに短命でした。でもその20年の間に、大型蒸機が入れる甲線規格の路線は、あらかた電化が進んでしまったわけで、今更ながらにあの頃のエネルギー革新の速度の速さを思い知らされます。『仙』の区名札を掲げたC6120が宮城や岩手を走る姿…見てみたいですね。

まー坊さん
素人写真さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-09-12 12:02) 

北オク

常磐線在住の北オクです。ゆうづるは見慣れ列車でした。さて父の話しですが、ゆうづるのカニに乗務してました。C62牽引は迫力があったそうです。
by 北オク (2012-12-19 22:16) 

風旅記

こんばんは。
お写真、興味深く拝見しました。
常磐線の最終的な復旧がいつになるのか、私には想像もつきませんが、必ずその日が来ると信じています。
お写真の当時の長距離列車の行き交う姿は、本当の幹線の風格を漂わせていたでしょうし、特急の行き交う在来線の様子は、今でも見飽きることはありません。
50年の歳月、本当に大きく変わってしまうものだと実感しました。
他の記事も楽しませて頂きます。
宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc
by 風旅記 (2015-05-17 00:02) 

mits tosh

初めまして。
貴重な常磐線の昭和39年から40年のSLの写真を公開してくださり、ありがとうございます。私が常磐線を訪れたのは昭和42年でした。おっしゃるとおりゆうづるに会いたい一心でした。当時貴殿と同様の中学生撮り鉄だった私はゆうづるの姿に感動し、今でもその気持ちが蘇ってきます。そしてこれも同様に定年を過ぎて鉄道趣味に戻ってきました。
よろしければ当方の昭和42年の動画や写真、再現模型をご覧ください。
by mits tosh (2016-02-17 18:36) 

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