So-net無料ブログ作成
検索選択

総武沿線各駅停車今昔対比写真~02錦糸町駅前編 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

【総武沿線各駅停車今昔対比写真】と銘打って始めた企画なのですが、01の予定の「両国編」を飛ばしていきなり錦糸町であります。ま、いろいろ事情がありまして…って「今」写真が撮れていないだけのことなんですけど(汗)。。
(1)C5777牽引の客車列車が両国方から錦糸町駅に近づいてきます。ネガの日付は昭和40年7月21日。撮影時期的に定期で両国に入ってきていた夕方の下り便ではなく、夏期に運転されていた房総西線へ入る臨時列車のようです。
01C5777.jpg

(2)無理やり拡大してみると機関車の右側、駅の北側には貨物ヤードが広がっているのがわかります。木材が無造作に野積みされていますね。
01-01kamotsueki.jpg

(3)同じあたりだろうと見当をつけた地点(総武線緩行ホームの両国よりエンドです)からみた現在の写真がこちら。快速線を東京方面に向かうNEX。あいにく上りの後追いですが、下り電車だと進路が北側へ大きく膨らみすぎます。
01-02nex.JPG

よろしければ続きをどうぞ。


総武沿線各駅停車今昔対比写真~00都電両国駅前編 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 都電の中でも5500形と並んで最大級の12系統5000形5001号がやってきました。新宿駅行きの方向幕を出しているのは、終点近くのためのフライング。この時点ではまだ「両国駅前」行きです。
IMG_0001.jpg

 新宿の大ガード近くから靖国通り~新宿通りを経て市ケ谷で靖国通りに戻って一直線に進む12系統。両国橋を渡って道の名前が千葉街道(京葉道路)と変わったとたん、左に折れて数百メートルほどの盲腸線のような路線に入り込み、両国駅前に至ります。背後の円形のドームの建物は元の両国国技館。栃若時代の大相撲はここで行われていました。この時点では日大に譲渡されて「日大講堂」の名前で呼ばれていて、ボクシングの世界タイトルマッチが行われたり、そうそう、60年代末の学生運動が盛んな頃は、「大衆団交」で名を馳せたりしましたね…。
 同じ地点の今の風景がこちら…。都電はもちろん、「日大講堂」の面影もありません。
01-01.JPG

 ほんの思いつきですが、旧総武鉄道の起点駅・両国から千葉まで各駅停車で総武線風景の今昔をみていただこうという企画、ここ両国から始まります。

よろしければ続きをどうぞ。


ご近所空撮!? [ご近所鉄(京成電車など)]

久しぶりに朝方からいい天気。多少雲は多いんですが、セスナをチャーターして空中散歩、ついでにNEXを空撮と洒落こんでみました。
01口上.JPG

というのは、もちろん真っ赤なウソです。

続きを読む


でっかい都電案内図 [番外]

 冬から春へと季節が移り変わりつつあるせいなのか、このところ1月のカラカラなピーカンはどこへやらの、はっきりしない天気が続き、なかなかおでかけモードになりません。今回も家の中だけでなんとかなるネタでご勘弁願います。
 今日、2月22日発売の朝日新聞出版刊『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄01 東京都交通局』編(長い…)を手にしましたら、巻末に「昭和37年10月現在」の都営交通の『電車案内図』が綴じこみ付録についていました。
02表紙.JPG
しかもデカい! 
01地図全体.JPG
広げると65☓45センチ、私の机の上では広げられません。
 この手の案内図は、過去にも都電関係の書籍になんどか収録されていると思うのですが、いかんせんサイズが小さすぎて、老眼鏡だけではどうにもならず、ルーペで拡大してようやく電停の名前が読める程度、このサイズなら肉眼でも読み取れます。
 昭和37年10月というと、まだ14系統杉並線も健在、
04荻窪線も.JPG
半蔵門から九段上に抜ける番町線も残ってます。
03青山線も.JPG
黒門町、旅籠町、松住町、大塚仲町、初音町、蓬莱町、今井町、竜土町、材木町…神田近辺やや文京区、六本木近辺に見られる「消えてしまった町名」の電停名も懐かしいですね。
 都営地下鉄浅草線は人形町まで開通しています。
05地下鉄は人形町.JPG

 この『電車案内図』だけで390円(創刊号だけの特別定価のようですが)の価値は十分にあると思うのですが、いかがでしょうか?
 ところで、曖昧な記憶で申し訳ないのですが、この手の「全線案内図」、当時の都電に掲出されていましたっけ? 運転台の背後の幕板に掲出されていたのは、当該営業所関連の路線図だけだったような気がするんですが…。

 ……だけで終わるのもなんなので、なにか関連する写真でもないかと漁ったのですが、37年だと私は小学生、都電の写真は撮った記憶がないし…ということで、無理やりですが、「人形町」の方向幕を出した営団日比谷線3000系の写真を…。
06日比谷線人形町行き.jpg

 左側にDRC「きぬ」が写っているので北千住駅ですね。いちおう前面部分を拡大…。
07アップ写真.jpg

 「都交の雑誌の紹介なのに、営団の車両を載っけてどうすんだよ?」……そうですよねぇ…。都交5000系の「人形町」行きの写真もあるにはあるんですが、ネガ傷酷いし手ぶれしまくりだし……じゃ、サイズ小さくして…。
08都交5000.jpg

 あーやっぱり恥ずかしい。

浜川崎1965年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

例えば一枚の写真を見て、「あぁ、ここには写っていないがこの先の右側にはアレがあって…」なんて記憶を呼び覚まされた…ってこと、ありませんか? 写っているそのものでなく、その写真の背景の記憶…今回はそんな一枚の写真から激しく反応しちゃったお話です。
 いろんな意味でインスパイアされっぱなしのCedarさんのブログ「Cedarの今昔写真日記」。2月14日の記事は、昭和38年、鶴見線浜川崎駅のワンカットから始まります。トップの写真は当時の鶴見線の標準的な編成クハ16+クモハ11の2両編成が写ってます。電車の向こう側、線路は右にカーブを描いて…写真はそこで切れているのですが…、まずはその写真を見ていただくと話が早いかな?
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2011-02-14
 のトップ写真です。あ、写真を見たらここに戻ってきてきてくださいね。実はあちらの方がコンテンツはずっと豊富だし面白いんですけど…。



 お帰りなさいませ(ほっ)。
 さて、電車の先、右にカーブを描いたその先、左側にはこんな情景が展開していたのでした。
01kikanku_01.jpg

 国鉄・浜川崎機関区。この写真の左側が貨物ヤード、右側に鶴見線という狭い空間に挟まれたクラでした。在籍していたのは鶴見線沿線の入替や小運転をもっぱら担当しているC11/C12。今思うと、確かこの機関区には「転車台」というものが存在していなかった…。
02C11205.jpg
ご覧のように、こじんまりとした機関区です。木造の矩形庫はC型タンク機が2両でいっぱいの奥行き、それが2線。矩形庫の先は行き止まりで、バスが通る道路に面しています。写真のC11105は4面すべて形式入り旧プレートの希少なカマ。
03C11105kura.jpg

 在籍していたC11はドームが角張った「戦時型」が多かったような気がします。C11275の右側にあるキロポストは鶴見線のもの。この右側が鶴見線の本線です。
04C11275.jpg

 いうまでもなく、このあたりは京浜工業地帯の真っ只中。まわりじゅう工場だらけで、鶴見線沿線は各駅ごとに工場の専用線とつながり、その橋渡しを担っていたのが浜川崎機関区のC型タンク機関車だったわけです。
05C11105.jpg
06C11276.jpg
特に浜川崎から昭和の間は、鶴見方向からくると左に広大な日本鋼管の工場、右は機関区を過ぎて運河を渡ると昭和 第一セメントの専用線。ぶっちゃけ、どこまでが国鉄? どこからが専用線? なんて一見の中学生にわからるはずがないカオスな状況でありました。この写真も複線の本線を走っている貨物列車に見えますが、機関車の先頭で颯爽と風を切る掛員、本線でこんなのアリ?
07C1185.jpg

 1965年(昭和40年)、浜川崎には15両のC11と2両のC12が配置されていました。2両の片割れC12248。
08C12245.jpg
しかし実のところ私にとっては国鉄のC型タンクはこの地では脇役でしかなく、主役は鶴見線とつながるそれぞれの工場や専用線で盛大に煙を吐いていた個性的なチビロコたちだったわけですが…そのあたりはいずれ…。
 そんな煙だらけの浜川崎の貨物ヤードにいたED16のトップナンバー。奥多摩から石灰石を運んできたところでしょうか。
09ED161.jpg

 浜川崎の機関区のすぐ脇で。鶴見線のクモハ11+クハ16の鶴見行きをスナップ。
10kumoha11.jpg
SL方面では多少渋め路線に目覚めつつありましたが、電車は同じクモハ11やクハ16でもそれぞれ由来があって外観も違い…なんてことはまったく知らなかった当時の中学2年生でありました。

 ケムリ好きにはたまらないあの煤けた街を思い出させてくれたCedarさんに感謝です!

早起き撮り2 京成電車雪景色 [ご近所鉄(京成電車など)]

 ゆうべの宵からの降雪にすっかり嬉しくなってしまった私。還暦間近というのに雪で嬉しがるとは幼稚なものよ、と思いつつも、やはり6時前に目が醒めてしまいました。雪は夜半に雨に変わったらしく、昨夜と積もり具合は変わっていません。それでも待望の雪景色です。午前6時半。
001.JPG
外はまだ薄暗いですが、ご近所撮りへと出かけてみましょう。
 何年ぶりかで履いた長靴
002.JPG

 気象条件に強いという定評があるらしい京成。今朝も平常運転のようです。
003.JPG

 交通量の多いバス通り。路面の雪はほとんど溶けていますが、歩道にはまだたっぷり雪が残っています。
004.JPG

 京成八幡から鬼越方面へ歩いてみます。
005.JPG
葛飾八幡宮の境内。神社には雪景色が似合いますね。
006.JPG

 カントの強いカーブの途中にある八幡4号/5号踏切。
007+.JPG
バイクのお兄さんも下車して手押しで踏切を渡ります。
007.JPG

 未更新3500形4連の上野行。プログラムオートで開放100分の1がいっぱいいっぱい。引き付け過ぎるとやっぱりブレちゃいました。
009.JPG
この電車が通過するといよいよ本命の登場です。
 モーニングライナー62号。雪景色の中を走る新AE形…う~んカッコいい!
010.JPG

011.JPG

 実は当ブログの第一回
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-01-11
 で早朝撮影を狙って見事に失敗、今朝は再チャレンジであります。あのあと手持ちの望遠ズームがイカれていることが判明、今日はおとなしく標準レンズでの撮影です。
 後追いは、ちと厳しいですね(汗)。。
012.JPG

 さて、本命は行っちゃいましたが、もうすこし京成の雪景色を楽しんでいきましょう。
3500形更新車6連の千葉中央行き。
013.JPG

 3738F快速上野行。
014.JPG

 一日一本限定。快速東成田行き3600形
016.JPG

 3758F快速特急羽田空港行き
018.JPG

 3648F通勤特急上野行
020.JPG

 朝方は昼間見られない種別や行き先が多くて楽しいですね。
 まともな編成写真もちょこっとだけ。
019.JPG
017.JPG

 だいぶ体も冷えてきましたので、線路沿いに京成八幡方向へ戻ることにします。早朝から雪かきに精を出す人。線路は格好の雪捨場?
021.JPG

 京成八幡に近づいてきました。3500形未更新車の芝山千代田行き。
022.JPG

 駅はすでにラッシュを迎えています。
023.JPG

024.JPG
足元に気をつけて、行ってらっしゃい!

どこまで積もるかな? [雑感]

 9時少し前、外を覗いたら裏の駐車場のクルマに雪が積もりだしている。あれ? 今夜は積もらないんじゃ…と思いながら晩酌をしていると、次男坊が雪まみれになって帰宅してきました。
 市川市、夜10時はこんな状況です。
002.JPG
003.JPG
004.JPG
現在気温は0度前後、雨雲レーダーを見てみると、まだしばらく雨(雪)雲は続いているようです。

 明日の朝はどうなるかな? 

昭和の小坊の幸せな休日~上野駅編 [昔鉄(フジペットシリーズ)]

また後日、などと書いてほっぽらかしにしていた小学生時代の写真、今回は上野駅編です。
 前回の東京駅編
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-02-04
 は結果的に昭和36年白紙改正当時の東京駅での写真でしたが、今回は一年その8ヶ月後、昭和37年(1962年)6月ダイヤ改正当時の上野駅の情景…だと思います、たぶん。。
 37年6月改正での一番のトピックは、上越線経由上野-新潟に電車特急とき(朱鷺)が誕生したことでしょう。電車特急といえば東海道線こだま、つばめなどに使用されていた151系、それに抑速ブレーキ&耐寒装備を付け加えた161系がデビューした年であります。
 で、やっぱり見に行っちゃってますね、ミーハー小学生。
 ゴールデンウィークのさなか、5月3日に起きた三河島事故の記憶も生々しい6月10日日曜日、新潟を朝8時30分に出発した161系9両編成の「とき」は、昼下がりの13時10分、上野駅高架6番線に到着しました。
01toki01.jpg
見た目は151系と変わらないものの、新系列を主張するボンネットを取り巻く鉢巻。ヘッドマークに併記された漢字の「朱鷺」が印象的でした。
02toki02.jpg

 ときが到着するこの時間、隣の7番線には常磐線回り青森行き特急「はつかり」が発車を待っています。のちに「ブルドッグ」なんて呼ばれたキハ81,当時の小学生は「獅子舞の獅子」みたいな顔だなぁ…と思っていたんですが、いかがでしょうか?
03toki_hatsukari.jpg

 ともあれ、昼下がりの上野駅高架ホームでは、電車特急と気動車特急の並びが毎日実現していたんですね。因みに下り「とき」の上野発は16時過ぎ。いったん所属の田町に回送する必要性から、高架ホームに発着していたため、こんな並びが成立したんだろうと思います。
 上野駅を発車する特急は、他には朝8時の「白鳥」。これは信越線回りで横軽のアプトを超え、直江津で青森からの「白鳥」を併結して大阪に向かうという上野発北陸線回り大阪行、今から思えばとんでもない運転区間の特急です。ところで左側に写ってるスカ型70系電車が気になるんですが…。
04hakucho.jpg

 また昼過ぎには奥羽線回り秋田行の「つばさ」が発車します。これは秋田に着くとほぼ同着で大阪からの青森行き「白鳥」と接続するという、まぁ列車本数が乏しい割に、実に考えぬかれた特急ネットワークが形成されたいたのですね。いずれも前年36年10月改正から運転開始されています。
05tsubasa.jpg

 さて、37年の10月のダイヤ改正では、東北線回りで上野-仙台間に電車急行「みやぎの」が運転を始めています。勝田電車区に配置された新鋭451系電車を使用したもので、早朝勝田から上野まで回送、上野発7時45分で仙台を往復、夜9時過ぎに上野に帰ってきて、すぐ常磐線の415Mときわ8号として日立まで運行、勝田に戻るというハードな運用だったようです。
06miyagino.jpg
フジペットの写真があまりにも汚いので、少し後に撮った写真も御覧いただきます。楷書体のHM,水カツの所属表記はそのままですが、車両のドアが通常のタイプです。451系の初期型は外吊りのドアでしたね。
07miyagino02.jpg

 同じ頃の地平ホーム。これも写真汚いなぁ。急行型DCですが、信越線長電に乗り入れていたキハ57系「志賀」かなぁ。小学生の「顔写真」だけではではなんの証拠も残りませんね。
08kiha57.jpg

 高崎線、東北線筋の一般電車の主力は湘南80系でした。3両目までは全金属300番代で揃った編成。
09kuha86.jpg

 東京駅にはないけど、上野駅では見られたもの。それが蒸気機関車です。成田線筋のC57、C58はご承知のとおり遅くまで残るんですが、常盤筋に残っていた客レを牽くC62。私が上野で撮った唯一のカットです。昭和36.37年のどこかで撮ったことには違いないのですが、さて、いつ撮った写真なのか? 
10C6210.jpg
36年には既に勝田までは電化が完了しており、一部残ったSL運用も37年の高萩電化時点で、上野-水戸間はすべてEF80に置き換え完了、と記憶しているんですが…。このC6210は仙台に配転された後、再会しているんですが、常盤のC62の中では早くに廃車になってしまったカマですね…。
 なんてことは、もう少し後、常磐線北部から東北の大型蒸機に夢中になりだしてからの話です。
 昭和36,37年の小坊は、親にねだったフジペット片手に東京駅、上野駅を行ったり来たりの日曜日、実車に飽きれば万世橋にあった交通博物館に行って3階のホールで映画を見たり(「ある機関助士」なんども見ました)、図書館で鉄雑誌を読みふけったり…、う~ん、やっぱり幸せな時代だったと思います。

あるダルマ電車の記憶 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 昨日朝からの雪は、当地では空振りに終わったようです。木曜日夜の天気予報で、ひょっとすると直近のブログ記事
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-01-31
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-02-01
1967年2月11~12日の大雪の再来? なんてワクワク期待しちゃったんですが…。そううまくものごとは符合しません。
01DSC_0005.JPG
02DSC_0040.JPG
03DSC_0025.JPG
04DSC_0042.JPG

 朝方から降りだした雪も、わが家の狭い庭やクルマの屋根をうっすら化粧するものの、降ったぶんだけ溶けてしまうという感じ。京成八幡駅近辺に出動してはみたものの、なんのことはない、写真に映るのはただの雨模様。ただし体感気温はむちゃくちゃ寒い…といういいことなんにもない状態。
05DSC_0059.JPG
霙とか氷雨とか、言葉は素敵ですが、鉄写真を撮る日和ではありませんでした。
 今日も引き続き似たような空模様。家でゴロゴロしていても仕方が無いので、市の図書館にちょっと調べ物に出かけてきました…というとおおげさですが、古ネガを漁っていてこんな写真を見つけたからです。
 1月18日の記事
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-01-18
で、60年代の総武線市川駅の話をさせていただいたのですが、その上り線側貨物用の側線に停まっているチキに乗せられたダルマになった電車の車体。哀れ、三つに分断されて、どこかに運び去られようとしています。
06IMG_0138.jpg
07IMG_0137.jpg

 総武線市川-本八幡間で起きた踏切衝突事故で脱線転覆、民家に突っ込んだ車両です。
 まぁそんなこともあったよ、と記憶で書き流しちゃおうとも考えていたのですが、待てよ、亡くなった方もあった事故だし、当時の新聞記事でも当たって見ようかと縮刷版の閲覧をお願いしに行ったわけです。
 そうしたらまぁ…、いかに自分の記憶が曖昧であり、思い込みを信じていたか…ということを思い知らされ…といっても何がなにやら? だと思いますので、まずは新聞記事の要約で事故の概要を…。。
「(昭和38年)9月9日午後2時5分ごろ、総武線千葉発中野行き電車が本八幡-市川間(本八幡駅から200メートル)の警報機のある踏切で日本通運の大型トラックと衝突、電車は一両目が横向きになって民家に突っ込み2両目は横転、3両目は脱線した。トラックは電車の下敷きになり乗っていた2人が即死。このため同線は上下線とも不通になり、電車の乗客一人と電車が飛び込んだ家の住人一人が重傷。乗客三人が軽い怪我を負った」
 新聞記事には空撮の現場写真も載っていした。それをもとに現場の見取り図を書いてみました。
map.jpg

 当時複線だった総武線。電車は完全に下り線を塞いでいます。ここに下り列車が突っ込んできたら、まさに三河島や鶴見事故の再現…。
 翌日の新聞の続報には「上り電車には二人の車掌が乗務、事故発生直後、一人は後方警戒、一人は前方(市川方)に走り、三分後に通過するはずの佐倉行き貨物列車を停止させ、二次事故を防いだ」というゾッとするようなエピソードも紹介されていました。

 さて、哀れにも三分割されてチキに乗せられた電車の素性です。クハ79350。桜木町事故で63系の新製が打ち切られ、昭和27年から新たにモハ72/クハ79の新製が行われたわけですが、27年製は切妻でフラットな前面窓で新製されたクハ79、28年製のうち2両は前面窓を5度傾斜させたスタイルで登場します。それがクハ79350/352の姉妹。翌29年度製からはのちの101系や103系にもつながっていく前面窓10度傾斜のスタイルが確立します。つまり前面窓フラットから10度傾斜にスタイルが移行する過渡期に2両だけ存在した5度傾斜のクハ79、その片割れがこのダルマ電車なわけです。
 残念ながらこのクハ79350の健在なときの写真は撮っていません。350と2両とも津田沼電車区に配置されていて、中野寄り先頭に組み込まれ、何度も見かけた記憶はあるんですが…。マニア的にはかなり注目の車両らしく、画像が紹介されているWEBページもいくつかあるようです。因みに前面5度傾斜の片割れクハ79352も昭和44年2月に房総西線楢葉(現袖ヶ浦~長浦間でダンプカーと衝突、脱線。結局事故廃車になっているとのこと。試作的前面窓5度傾斜の2両とも、踏切事故で廃車になる…なにかの因果を感じるのは私だけでしょうか?
 さて、私の思い違いです。まず衝突したのはダンプカーだと思っていた。これは上記長浦事故とごっちゃになったせい? 2番目、衝突現場はもっと本八幡よりの行徳街道踏切だと思っていた。これはダンプカーが通れるような道は当時行徳街道しか思い当たらなかった、ということでしょうか。ひとつの思い込み違いが次の勘違いを呼び起こす…典型的な老人性の思い込みですね。いずれにせよ、写真を出す前に調べておいてよかった…(汗)。総武線は翌朝には平常運転に恢復したようです。とするとこの写真は翌日9月10日の撮影でしょうか。
 事故現場の48年後の画像もお目にかけます。もちろん総武線は複々線化と同時に高架化しましたので、踏切は存在しません。
08DSC_0063.JPG
09DSC_0065.JPG
本八幡駅から遠くないこのあたりは当時も今も民家の密集地帯です。
11DSC_0066B.JPG
警戒色にぬられた鉄柱が、なんとなく大事故の起きた踏切の遺構に見えるのは気のせいでしょうか?
 ダルマ電車の背後に写っている「タカラサイダー」の工場。このあたりのことも書きたいのですが、既にあまりにとりとめがなくなってきました。今日はこれにて…。

客はどこへいった? 地下鉄東西線1964年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 九段下は高校時代の3年間を過ごし、また数年前まで十年余り活動の拠点をおいていたところなので、個人的には思い出も思い入れも多い町です。浦安に住んでいた時期も長かったので、地下鉄東西線にもそれこそ数限りなくお世話になっているわけで…。
 そんな九段下の東西線、車両は5000系、だけど様子が変…。
001.jpg

 ホームの端っこのほうにポツンと停まった電車。3両しかつながっていないし、前面の青帯がやけに細いし、車両番号も入っていない…そんなことより乗客の姿がは全く見えない…。実はコレ、1964年(昭和39年)東西線高田馬場-九段下が開業した当初の様子です。確証はないんですが、12月23日の開業当日かもしれません。けっこう私、初物好きのミーハーだったし。
 おそらく早起きをして、中学校の始業時間前に、新しい地下鉄をちょっと覗いていこう、という感じだったのでは?
 ということは、早朝なんでしょうが、しかし見事に人がいませんね。当駅折り返しとはいえA線(1番線)もB線(2番線)も使っているのに、どちらのホームも見事に客が一人も写りこんでいません。
002.jpg
002-01.jpg

 2番線の案内表示には飯田橋、神楽坂、早稲田、高田馬場方面…方面というより全駅表記していますね。
002-02.jpg

 ご参考までに飯田橋駅で撮ったショットを。
003.jpg
かぶりつきには大勢の人の姿が見えますね。中のほうまでは分からないけど。
003-1.jpg

 ちなみにそのころの九段下の地上はこんなふう。神保町の方からやってきた都電15系統の800形早稲田行きが右折して飯田橋方向へ向かうところです。この15系統も東西線が1967年に東陽町まで延伸されたことで、命脈を絶たれてしまったのでした。
004.jpg

 思えばあれから嫌になるほど乗った5000系(それしか走っていなかった時代なので…一時半蔵門線用の8000系が貸し出されてきたときは欣喜雀躍)も、東西線からは4年前に姿を消し、今では北綾瀬支線で姿を見られるだけとか。最近じゃインドネシアに譲渡されてジャカルタ近郊で走っているのが注目を浴びていますね、機会があれば見に行きたいな。
 余談ですが、70年代にウケた「地下鉄の電車はどこから入れたか考えたら一晩中寝られない」の漫才ネタ。あれを聞いたときに東西線の部分開通時のことを思い出しました。この高田馬場-九段下は東京の地下鉄で最初の「地上開口部のない地下鉄開業」じゃなかったでしょうか?

 今や混雑率全国ワーストワンといわれている東京メトロ東西線(通勤で使っておられる方、ご苦労様です)、開業当初の「こんなにお客がいなくて大丈夫?」な風景でした。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。