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真夏のケムリ三昧~昭和41年夏、佐倉。 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 昭和41年の夏休みもそろそろ終わりかけの頃。
 千葉駅を正午過ぎに出発する銚子行き325レに乗った私。C5813に牽かれた列車は30分余りで佐倉に到着しました。蒸気機関車牽引の総武線客車列車は、新設間もない東千葉、信号場から仮乗降場に昇格した都賀は通過するので、四街道、物井と停車して千葉から3つ目が佐倉です。
 佐倉は千葉の鉄道の要衝。総武本線はここから成田を経由して佐原、銚子に向かう成田線を分け、広々とした構内の西のはずれには、40両近い蒸気機関車を抱える佐倉機関区があります。
01C5813.jpg


 325レはここで機関車を交換します。役目を終えたC5813が東側に逃げると、待機していたC57114がバックで進入してきて客車に連結。やがて出発合図と共に、ドラフト音高く銚子に向かって出発して行きました。
02C57114.jpg


 C57114は田端機関区(旧尾久機関区)に最後まで残っていC57。昭和39年の春に僚友のC5771と共に佐倉に配置換えされた機関車です。田端区の所属札をつけた114号機の最後の運用を追っかけたのは2年前、私が中学2年から3年に進級する春でした…。

 いまではすっかり佐倉の顔になった114号機を見送って、南酒々井方向へ。県道の踏切を超えたあたりにやってきました。
 佐倉は客車だけでなく、貨物列車の拠点駅でもありました。銚子方面から総武線、佐原、成田方面からの成田線だけでなく、房総東線からやってくる貨物も、大網-土気の急勾配を嫌い、大網から成東を回ってやってきます。ほとんどの貨物列車はここで仕立て替えされ、東京方面に向かう貨物は、ここから新小岩機関区のD51が牽引する重量貨物列車となって新小岩の操車場に向かいます。そのため駅の構内には常時8620形が張り付き、貨物の入換に励んでいます。今日は58682が佐倉駅構内の入換を担当です。
03_58682.jpg


 入換に勤しむ脇をC58102に牽かれ出発していく貨物列車は大網、成東を経由する273レ勝浦行きです。主要駅で貨車の解結を行いながら、勝浦に着くのは夕方18時を回る頃…。
04_C58102.jpg


 駅の反対側に位置する機関区に向かっていると、ハチロクに牽かれた上り貨物列車が到着しました。茂原からやってきた282レでしょう。41年当時、佐倉には5両のハチロクが在籍。佐倉構内の入換のほか、銚子までの貨物列車を牽引、銚子に着くと丸一日銚子構内の入換を担当し、翌日成田線経由の貨物列車で佐倉に帰ってくる運用や、佐倉-茂原間の貨物運用も担当し、日向から八街への上り勾配をブラスト高らかに駆け上がるなど、老骨に鞭打って活躍していました。
05_58684到着.jpg


 下りの一番ホームに急行「犬吠・水郷」が到着したようです。ホームの中ほどでは編成の分割作業が行われていることでしょう。
06準急水郷.jpg


 佐倉機関区に所属するC58の最若番機、C583に牽かれた千葉行きの列車が出発していきます。成田線経由で銚子からやってきた426レでしょうか。右側に伸びる線路はもう機関区の構内になります。
07C583.jpg


 機関区では、茂原から帰ってきた58684が給水、給炭を済ませて身体を休めていました。
08_58684kura_01.jpg


 昼下がりの炎天下、アッシュの片付けに精を出す庫内手さんたち。
09_58684kura_02.jpg


 転車台に乗る58684。佐倉機関区には、転車台回りに4線だけのこじんまりした木造の扇形庫がありますが、それよりずっと時代がかったレンガ造りの矩形庫もあって、存在感を示していました。
10_58684kura_03.jpg


 その矩形庫は、佐倉駅を出発する上り列車のちょうど正面にあたり、上り列車は矩形庫を避けるように右にカーブを切り、その先にある小高い台地の裾を回りこむように千葉方面に向かっていました。C58291の牽く上り貨物列車。
11C58291.jpg


 この1年9ヶ月後、昭和43年の春に成田線成田までの電化が完成します。そのときに、物井-佐倉間は新線に付け替えられ、佐倉駅からまっすぐに、台地をトンネルで抜けるようになりました。矩形庫はこの写真撮影後まもなく取り壊され、その跡地が新線の用地となりました。

 転車台を取り巻く留置線に並んだC58オールスターズ。左からC5813,C58150、C58305,C58289(すべて佐倉区所属)。千葉県下の国鉄線で、佐倉のC58が入らないところはない、なんていわれてました(さすがに丙線級の木原線や久留里線には入ってませんね)。クルクルパーにシールドビーム。「だから千葉のカマは…」って陰口叩かれていたのは知っていますが…家から一時間の場所でこんな光景をみられるのだから…今見ると生きたカマの4両並びは壮観です。
12C58allstars.jpg


 もともと佐倉機関区の主力はC58一色。C57は影が薄かったのですが、田端(尾久)からの転入に始まり、この年あたりから各地で余剰になったC57が、佐倉に続々と転入をはじめます。昭和41年に6両だった佐倉区のC57が、42年には11両にも増え、そのぶんC58の運用を置き換えて行きましたので、昭和41年はC58の所属両数のピークに当たります。

 さきほど千葉からの325レでお世話になった13号機が、もう次の運用につくのでしょう、転車台に乗って出区準備にかかります。
13C5813.jpg


 木造の扇形庫にたたずむ58680。佐倉生え抜きにして、昭和44年、DE10の進出によって、佐倉区の蒸気機関車が終演を迎える最後まで残ったハチロクの一両です。
14_58680.jpg


 形式入りのナンバープレートが美しい28646。煙室扉が開いて、休車状態ですが、実はまだ佐倉に転入して間もない頃。このカマも最後まで残った一両です。
15_28646.jpg


 回転火の粉止め(クルクルパー)を装着したまま、煙突にカバーを掛けられ休車状態の58631。このカマはこの年限りで廃車になったようです。
16_58631.jpg

 この2年足らず後の昭和43年春、総武線は成田までの電化が完成しました。それでも当初は、一部気動車や客車列車が、津田沼区のモハ72系に置き換わっただけでしたが、翌44年には、佐倉区に新製のDE10,DD51が大量配置され、最後まで残った蒸気機関車たちに引導を渡します。
17_58684.jpg


 その3年前、この写真を撮影した昭和41年という年は、新小岩区のハチロクが消える一方、D51も船底テンダの戦後型が淘汰され、各地から集められた標準型に置き換わる一方、C58一色だった佐倉区には、各地から配転のC57が11両にまで増殖するという激動期。新小岩の6両のC57と併せ、房総の線路はつかの間のライトパシフィック天国が現出したのでした。
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Cedar

はっきり言って興味ないSLなのですが。惹かれるのは駅構内の線路の美しさです。整ったバラストや保線の行き届いたレールの状態など、多くの人が丹精込めて鉄道を守ってる、という感じが伝わってきます。最近のJRの線路は美しくない!
by Cedar (2011-08-10 00:00) 

hanamura

こんな場所があったんですねぇ。私は妄想するだけです。

by hanamura (2011-08-10 06:02) 

よしくん

味わった事が無いのですが、その時代の鉄分補給
したいです。羨ましいですね(^^)
by よしくん (2011-08-10 11:53) 

maipenrai

Cedarさん
 おっしゃるとおり当時の国鉄の施設は隅々まで人の手が行き渡っていた印象がありますね。最近じゃ幹線筋まで線路の間に雑草が生い茂っていて、何じゃこりゃ、と思うことがあります。
 私は模型はやらないんですが、レイアウト的にも昔の駅構内のほうが美しいな、と思います。でもやっぱり架線が張っていないとダメかな?

hanamuraさん
 45年前の写真ですが、シチュエーションを思い出しつつ記事を書いていると、昨日の事のように思えます。現実の「昨日のこと」はしょっちゅう忘れたりしているのですが(笑)。これって退行が始まってるんでしょうか?

よしくんさん
 情報は乏しくカメラはお粗末、フィルムは高い…そんな時代でした。そのぶん、よかったこともいっぱいありますが、昔と今を比べて「どっちがいい?」なんていうのはあんまり意味が無いですよね。だって私は30年後の鉄道を見られる可能性はほとんどないんですから(笑)。

シュウチャンさん
あおたけさん
CASCO事業部さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-08-10 15:15) 

D6025

初めまして。懐かしい写真の数々、改めて何とか間に合った幸運に感謝しています。主宰者さんよりは少し遅く、佐倉地区は昭和43年春以降だったのでC57、C58共全照灯は二つ目、が殆ど、86だけ何故か大型のLP403でした。毎年恒例だった房総夏の陣は気が付いた時は最後の夏で間に合いませんでした。
仙台のC5990と176は火を落とす直前、昭和40年9月に現役最後の姿に接する事が出来ました。ブログで福島機関区で撮影された176号機の紹介記事で何故同機が既に電化された・・・の記述があります。この理由について昭和39年に発行された鉄道ピクトリアルのC56/C59特集で触れられております。要約しますと当時はED71の数が不足、C62の廃車で仙台のC60,C61は運用余力無、仙台-福島間の越河-中ノ目は電化時「散火覆」が外されているのでC59に回転火粉止を付けこの運用に充当とあります。福島区で撮影された176号にクルクルパーが付いており記述を裏付けています。
当時東北地区での撮影スタイルはブログ主宰者さんと半分共通(行きは父の運転する陸送車、帰りは列車)で世の中は広いようで狭いことを実感しました。
今後も懐かしい写真のアップを楽しみにしております。


by D6025 (2011-08-11 19:34) 

maipenrai

D6025さん
 ご来訪、そしてコメント有難うございます。また福島での一件、ご教授ありがとうございました。あのとき、福島にはD50が一両だけ残っており、越河越えの補機運用についていました。ED71の不足や(早すぎる)仙台のC62の廃車などを思い重ねると得心が行きました。
 ところでHNのD6025、どこのカマだったか…と思いアンチョコを調べましたら、やっぱり直方のカマでした。想い出がいろいろおありなんでしょうね。私はついに筑豊のD60が現役時代には、九州入りを果たすことはできませんでした。
 今後とも宜しくお願いいたします。

nexus6さん
manamanaさん
gardenwalkerさん
 niceありがとうございます。

by maipenrai (2011-08-11 23:06) 

maipenrai

ug-takさん
ryo1216さん
しまりすさん
 niceありがとうございます。

by maipenrai (2011-08-12 20:14) 

京葉帝都

当時の佐倉駅には拠点となる鉄道駅の全てのアイテムが揃っていたのですね。とても貴重な記録です。腕木式信号機が大きく立派に見えます。現在の電留線があるエリアは以前は貨車区でしたが、昭和40年代初めは貨車区は機関区・ヤードエリアにあったのでしょうか。私はDL化後の目立たない機関区を車窓から眺めたことがあるくらいです。
by 京葉帝都 (2011-08-12 22:39) 

maipenrai

京葉帝都さん
 現在の電留線のあるエリアというと、南酒々井、酒々井方面に向かって右側ですね。あのあたりは60年代には田んぼが広がっていて、何もなかったと記憶しています。現業機関として貨車区があったのかどうか…これもなんとも…です。千葉管理局では、錦糸町に客貨車区があり、新小岩に貨車専用の工場がありましたが、それが廃止された後、移転したものかな? と考えるのですが、いかがでしょうか。
 ちなみに客車運用の拠点は錦糸町と成田(成田線管理所)で分担して受け持っておりました。
by maipenrai (2011-08-12 22:55) 

FTドルフィン

電化されていないと
空が広いですね!
いまやあちこちでSLが復活していますが
現役当時と大きく違うのは
お写真にあるような
大規模な給水・給炭設備はないこと
やはり雰囲気が圧倒的に違いますね!

新潟で元機関士さんにお話を聞いたとき
くるくるパーのお話も聞きました
装着すると蒸気の上がりが悪くなるそうで
装着されると憂鬱になったと言ってました。
by FTドルフィン (2011-08-13 00:20) 

maipenrai

FTドルフィンさん
 空が広い…ほんとうですね。最近では橋上駅舎にとどまらず、駅構内の真上にビルを立ててしまう手法で、空がまったく見えない駅が増えてしまいました。
 大規模な給炭塔というと、関東では高崎第一機関区のものが凄かったですね。いっぽうで、小規模な基地にはそんなものはなく、新小岩機関区などではショベルカーで石炭の積み込みを行っていました。いまはどうしているんでしょう?
 あの記事の元機関士さんは酒田機関区でしたか。関東から東北にかけての蒸気機関車は、春から秋にかけて火の粉どめを装着するのが当たり前でしたね。やはり子供心に「ブサイク」だと思ってました。
by maipenrai (2011-08-13 13:26) 

maipenrai

arail206さん
銀狼さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-08-14 15:53) 

白龍

はじめまして!貴重なお写真、拝見できて感動しています。
昭和41年というと、ちょうど私は小学5年生。母の実家は成田線で銚子の手前ですが、母の姉が銚子の外川にいることもあり、小学3年から毎年夏は銚子で過ごしていました。行きも帰りも必ず客車の列車を選んで乗っていました。この佐倉駅では、停車時間も長いので、佐倉名物?のアイスクリームを買って食べるのも楽しみでした。私の家は千葉県内ですが(と言っても市川橋を超えれば東京ですが)、市川橋を渡るD51牽引の貨物列車をよく見ていた記憶もあります。
高校生になるころには客車もDE10の牽引になっていました。そのころ佐倉機関区へ行った時の印象は、DD51,DE10の黄金時代かと思います。機関区と線路を挟んだ反対側の畑に通じる退避線上で、廃車待ちの8620(可愛そうな姿でした)も見に行きました。
何か、45年前にタイムスリップしたような感じになりました。
どうもありがとうございました。
by 白龍 (2011-08-24 18:41) 

maipenrai

白龍さん
 はじめまして。ご来訪ありがとうございます。
 私より少しだけお若いようですが、江戸川の鉄橋を渡るD51をご覧になっていらっしゃったとのこと、ひょっとしたらその頃はご近所だったかもしれませんね。江戸川鉄橋は私もホームグラウンドで、拙ブログでもなんどかとりあげております。
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-01-18
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-05-05
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-07-14
 よろしければご笑覧いただければ幸いです。
by maipenrai (2011-08-24 22:03) 

白龍

一部追記させて下さい。
前回のコメントで「廃車待ちの8620」と書きましたが、私の写真(廃車待ちの状態)で正面プレートを確認したところ手書きで「58683」と書かれていました。良く調べてみると、佐倉市の高崎川南公園(駅より徒歩5分ぐらい?)で綺麗にはなっていますが、籠に入れられた状態で保存されていました。
by 白龍 (2011-08-26 18:37) 

maipenrai

白龍さん
 こんばんは。
 ちょっと調べてみましたら「58683」は69年の12月に佐倉区で廃車になっています。永く佐倉区に所属していましたが、65/66年の2年間は新小岩区に転属になっていて、私はどちらかというと新小岩時代のほうが馴染みがありました。懐かしいなぁ…籠の鳥状態ではちょっと…ですが、公開されることがあるのなら会いに行きたいですね。あの頃は「廃車前提の休車」でナンバープレートを外された姿(盗難防止?)の機関車をよくみかけましたね。
by maipenrai (2011-08-26 19:22) 

伊 謄

 28646は見かけてはいるんですが写真は撮ってなかったようです(笑)。
 残念ながら佐倉の86が消える少し以前に廃車になっていたので、見かけたのも1回だけでした。
by 伊 謄 (2011-09-17 18:46) 

maipenrai

伊 謄さん
 はじめまして。マレーシアの蒸機、みてみたいですね。
 私自身、はじめて上陸した外国がマレーシアでした。40年前のポートクラン(ポートセッテンハム)の臨港線には、アメリカスタイルのDLが盛んに入換をしていました。
 ハチロクはあちこちで見ていますが、千葉のハチロクはスタイルのいいのが多かったですね。ただ東北地方を歩くようになって、各地でデフなしで入換に励むハチロクを見るようになると、デフなしがハチロクの本来の姿かな…なんて思う部分もあります。
by maipenrai (2011-09-17 22:26) 

伊 謄

 こんにちは。
 Pel.Klangのあたりも電化されて、雰囲気は変わっていますね。
 ところで、ここの留置線には一時期保存用の車両が置かれていた時期があって、古い木造の客車や装甲車を写すことができました。
by 伊 謄 (2011-09-18 02:19) 

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